「Farewell to Mr.R.M」-大腸癌で急遽寄港したフィリピン人船長との思い出-
「M3メンバーズメディア」では医師会員から寄せられた記事の一部をご紹介します。今回からシリーズとして、「心に残る症例」をテーマにエピソードをご紹介したいと思います。薬剤師の先生方も、いつまでも印象に残る症例、患者さんとの想い出があるかと思います。中には仕事の在り方を考えさせられるかもしれないエピソードもあるかもしれません。日々のお仕事にプラスの変化となるような、「気づき」を感じてもらえたら幸いです。
M3メンバーズメディア」では医師会員から寄せられた記事の一部をご紹介します。今回からシリーズとして、「心に残る症例」をテーマにエピソードをご紹介したいと思います。薬剤師の先生方も、いつまでも印象に残る症例、患者さんとの想い出があるかと思います。中には仕事の在り方を考えさせられるかもしれないエピソードもあるかもしれません。日々のお仕事にプラスの変化となるような、「気づき」を感じてもらえたら幸いです。
Dr.きむっち
私は、当時医師になって3年目(外科後期研修中)でした。職場は、屋根瓦式の研修医教育を掲げていた、A病院です。研修医1年目から胆嚢結石症の腹腔鏡下胆のう摘出術・鼠径ヘルニア根治術・虫垂切除術・下肢静脈瘤のストリッピングなどの執刀をさせてもらい、2年目からは開腹による大腸癌/胃癌の手術・シャント造設・絞扼性イレウス・胆嚢炎の腹腔鏡下胆のう摘出術など、3年目になるとさらに執刀させてもらえる手術が増え、外科医としての自信もついてきた時期でした。
当時のA病院は、まだしっかりとした救急科がなく、3年目以降の医師は問答無用で当直のリーダーとなります。救急隊からの電話での受け入れ要請は、断ることは許されません。どんなにベッドが埋まっていても断らない医療を掲げ、診療にあたる数少ない3次救急を行っている病院でした。妊婦さんのかかりつけ以外は、初期対応はすべて自分たちが行います。
-緊急入院してきたフィリピン人船長
2010年、秋、私は当直ではなく外科当番として自宅で待機していました。夜22時頃に、急性腹症が来たという連絡があり、病院へ行きました。
患者さまは、R・Mさん54歳男性、フィリピン人。世界中で航海しているフィリピン船の船長さんでした。アメリカからフィリピンに帰る途中、腹痛と嘔吐があり、A病院の近くの港に緊急寄港したというわけです。アメリカに仕事で寄港した際も、実は腹痛で医療機関(総合病院)を受診され、検査上、腸炎と診断されたということでした。
英語とフィリピン語しか話せないため、コミュニケーションをとるのに苦労しましたが、診察上、腹部膨満・嘔気があるということ、ポータブルのレントゲンで著明な腸管の拡張を認め、同意を取り胸腹部造影CTを撮影しました。
診断は・・・大腸癌(上行結腸癌)によるイレウス、肝転移、肺転移、脱水症でした。
内心、とんでもない症例を引いてしまった・・・という気持ちがありました。でも、患者さまはもっと辛い心境なんだろう、家も近くにない、あまり知らない日本で不安だろうし、とも考えました。腸の動きが悪く、脱水になっている、まず入院して点滴などしましょう、と診断のすべてを説明せずに、まず入院の手続きを取りました。
胃管を挿入し、点滴をつなげ、外科病棟に入院させた後、アメリカでの検査のCD-ROMを見返すと、すでに肝臓や肺に転移を疑う結節影が多発しておりました。上行結腸に巨大な腫瘤も認めたのに、腸炎という診断・・・・なんてことだ、でも、だからといって診断結果は変わらない。アメリカできちんとした診断がされなかったとしても、それを今更患者様に話してもどうにもならないだろう、と思いました。
どうすることが、R・Mさんにとって最良の治療か、明日以降考えて決めないと、と思いながら病院に泊まりました。
-告知をするか?
朝方、その船の日本支部のBさんという方が来てくれ、現状の説明や、今後の相談をしました。フィリピンでは、船長さんの身分はとても高く、R・Mさんも例外ではなく、豪邸に住んでいるということが分かりました。奥様に国際電話をして、現状を含め、すべてをご説明しました。
かなりの進行癌で、姑息的な手術をするかどうか。化学療法はできるが、日本でやるかフィリピンでやるか。また完治は難しいだろうということ、すぐに告知をするかどうか。奥様の返答は、告知をせずに、病状が安定した時点でフィリピンに帰してほしい、化学療法もフィリピンでやりたい、ということでした。
それを聞き、私はとても悩みました。
第一、告知せずに姑息的な手術をしてもいいかどうか(できるかどうか)、バイパス手術がうまくいく保証もありません。場合によっては人工肛門・・・でも告知していないのに人工肛門って・・・。そうこう考えている間にも毎日は過ぎ去って行きます。
外科は主治医制でしたが、診療方針の共有や治療方針が合っているかなどのディスカッションの必要性からも、回診やカルテなどはチームで共有して行って(チェックして)いました。チームでの朝回診時、片言の英語で、おはよう、コンディションはどうですか?吐き気はないですか?などを聞いて回る毎日。
R・Mさんは医学知識も結構ある方で、胃潰瘍などではないか?胃カメラをしたらどうか?などと質問してくることもありました。その場では、CTでは胃は問題なく、腸の病気だから、胃カメラはしなくていいんですよ、などと返答していました。
当時の外科のトップとも議論を重ね、こんなことを言われました。
「告知の希望を書面などで表示していなければ、告知して我々医師が罰せられることはない」「告知しないで処置をして罰せられることはある」
・・・なるほど、と思いました。その通りだと。ただ、自分は、どうしても患者さま側の立場で考えるよう、日々の診療で心がけていたので、素直に告知することは、最後までできませんでした。
悩んだ結果、胃管を挿入したままの転院搬送は困難であり、手術をする方針に決めました。R・Mさんには、腸の通りを良くして、食べられることができるよう、バイパス手術をしましょう、と説明した上で、彼は納得し、11月22日に手術を行いました。
開腹は上腹部正中小切開で行いましたが、想像以上に腹膜播種がひどく、また腸管外にも癌の腹膜転移が著明であり、大腸の可動性は限局していました。やむを得ず、回腸瘻造設を行い、閉腹、無事手術を執刀し終えました。
-フィリピンへの転院搬送
術後は5分粥から開始し、ほどなく全粥も食べられるようになりました。
Bさんと連携し、私が付き添い、フィリピンまで転院搬送する計画が予定されました。正直、自分は英語が得意なわけではなかったので、手術所見やサマリーを英語で書くのにとても苦労しました。研修医の後輩で、語学留学経験のある者に助けてもらい、なんとか作り上げました。
外科のトップ、病院長などに了解を得て、12月6日に病院を出発しました。
私は、「日本にはそうそう来ることはできないだろうから、何かしておきたいことはないか?」とR・Mさんに聞きました。
彼は、「前に食べた牛丼が美味しかったんだよ。帰る前に牛丼が食べたい」と返しました。私の病院の近くには商業モールがあり、フードコートの一角に[すきや]があったのです。私は、「ミニ盛りならいいよ」、と注文してあげました。
彼は美味しい、美味しい、と何度も言いました。気のせいかもしれませんが、彼の目には涙のようなものが光っていました。もしかしたら彼はそのとき、悟っていたのかもしれません。
・・・私は、彼の顔を真っすぐに見ることができませんでした。彼は、半分ほど食べ「美味しかった~」と言いました。そして、残された牛丼を片付けて私たちは空港に向かいました。
その日は、成田に前泊しました。もちろん、彼の部屋の隣は私の部屋です。ホテルでも特に問題はなく、12月7日、成田から飛行機に乗り込みました。それまで、数回の国内、海外旅行で飛行機に乗ったことはありましたが、医療用の特別ゲートを通って飛行機に乗ったのはこれが初めての経験でした。特別で不思議な感じでした。
フィリピンに着くなり、現地の船舶会社が用意してくれていた車にBさんとR・Mさんと一緒に乗り船員病院(総合病院)へ。R・Mさんの奥様とあいさつをし、しっかりと握手をしました。彼は奥様とお子様と抱き合って泣いていました。私も泣きそうな気持ちになりました。そして、担当してくれる女医さんに申し送りをしました。「この、診断・手術をあなたがやったの?」と何度も聞かれました。おそらく医師になりたての、27歳の私が?と思ったのでしょう。
少し、自分の病院や、自分の指導医を誇らしく思いました。
そして、そのあと、「くれぐれもR・Mさんをよろしくお願いいたします。」と何度も頭を下げました。
最後にR・Mさんと何度も握手しました。R・Mさんは体格が良い方で、手も大きくてあたたかかったです。私はR・Mさんからたくさん感謝の言葉をもらい、ご家族に見送られて病院を後にしました。
その後、フィリピンの船舶会社の本社に招かれ、バロット(孵化直前のアヒルの卵を加熱したゆで卵)やサンミゲル(ビール)をいただきました。正直バロットはあまり美味しいとは言えない味でした(笑)。
その次の日の朝、日本へ戻る飛行機に乗りました。成田に1泊、フィリピンに1泊の弾丸移動を終え、帰国後、私は40度の熱を出しました。検査しましたが、マラリアではなく疲れによる発熱だったようです。
-予期せぬ邂逅
その翌年の3月11日、東日本大震災が起こりました。
すでに4年目になりかけていた私は、救急の赤トリアージ班で、震災時から救急医療に奔走しました。救急部としては、初日に身構えていたものの、駆けつけに向かった救急車がほとんど津波で流され、数人しか病院へ来ることができませんでした。2日目から前日の雪や津波による冷水の影響で低体温の患者さまで救急ブースが溢れたのは、有名な話です。
10日以上シャワーも浴びれず、食事は1日に握りめし1個ずつが2~3回に分けられ支給されました。
支援物資もまだ届かず、雪の降る中、研修医・指導医みんなで頑張りました。そのとき私のいた病院は、震災時の拠点病院だったため、患者さまも多かったですが、TV局や有名人も入れ替わり立ち替わりたくさん来ていました。
TVにも何度となく映され、走り回って仕事をしていて、邪魔だと思ったことも多々ありました。救急医療が落ち着き、震災の体制も通常診療体制に戻ったころ、私はチーフレジデントになり、外科でさらに研鑽を積んでいました。
秋になり肌寒くなってきたある日、あの船舶会社のBさんが手土産を持って外科病棟に来られました。
「お久しぶりです先生、その節はありがとうございました。」
『こちらこそ、お世話になりました。R・Mさんはその後どうでしたか?』
「あれから化学療法を行いました。震災のとき、先生をTVで見つけたらしく、マイドクター!マイドクター!と言って震災でも活躍する先生を見て、本当にいい医師に診てもらえた、と言っていましたよ。」
『そうですか。それはうれしいですね。』
「彼は数日前に家族みんなの前で安らかに息を引き取りました。ご家族も先生にとても感謝していました。」
『・・・そうなんですね。・・・僕にとってR・Mさんと出会えたことは、医師としても、人生においても貴重な経験をさせていただいたと思っております、ありがとうございました。』
私は、その場を離れ、しばらく涙が止まりませんでした。
素晴らしい経験をできたのだと思いました。
患者さまやご家族の話や希望をしっかり聞き、型にこだわらず、患者さま第一の診療を心がける姿勢は、その時に確立されたのだと思っています。
天国のR・Mさんといつか、また一緒に牛丼を食べたいです。